姓名判断・名づけの専門家:桜宮史誠名付け室|命名の無料相談も

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1947年生まれ。
鹿児島で学業を終える。
消防署救急隊員を病のために辞職。
人並みに生きて生活をしていくために始めた自営業は、他人に貸した手形が元で倒産。結果、5,000万円を越す負債を背負い込み、人生の泥沼に突き落とされる。
営業職に身を転じて、ありとあらゆるものを売り歩き、負債のほとんどを働いて返済。
転落した人生の中で人の名前が及ぼす影響を研究し、その謎を解き明かす。
人の名前が人生に及ぼす影響や運命学についての出版物を刊行し、累計部数は60万部を突破。
病気を癒す気功術の分野で新境地を開拓。
週刊誌・月刊誌・テレビ・ラジオなどでも活躍中。

浮き沈みの激しい人生
私は国鉄(現JR、鹿児島鉄道管理局管内)の職員だった父親を尊敬し、自分も同じ職業に就くことを夢見て育ちました。しかし、家庭の事情により希望した高校へは入学できませんでした。私は国鉄を諦め、当時、花形産業であった金属工業を学び、学業を終えた後は製鉄会社に就職しました。 1年半後、企業社会の矛盾に悩んだ私は、意を決して会社を辞めました。
その後に就いた仕事は、港での肉体労働、自動車販売の営業マン、トラックの運転手、ダンプやブルドーザーの運転手など、頭脳労働・肉体労働など、多岐に渡ります。 職を転々とする間に結婚し、安定した生活を得るために消防職員の採用試験に思い切って挑戦し、救急隊員を務めました。
しかし数年後、体調不良で倒れてしまったのです。 子供の頃から、名前が悪い、いつか大きい病気をする、と近所の神官に言われていたことを思い出しました。健康を取り戻すためにあらゆる方法を試みましたが一向に好転せず、仕事は退職せざるを得ませんでした。 ある日、体調不良で通っていた整体治療院でクリームの販売会社と、健康食品の販売会社を紹介され、鹿児島の国道沿いで開業しました。いろいろな人からのサポートを受け、1年後には協力店が数十にもなり、事業は順調でした。
ところが、販売所兼事務所の入っているビルに出入りしていたG氏らとの関わりが原因で経費が数倍に跳ね上がり、1千万以上の借金を抱えることになってしまったのです。私は、G氏らとの関わりを絶つべく会社をたたみ宮崎に引越し、わずかな資金で健康食品を懸命に売り回りました。 数年後、ファーストフード店経営の話が舞い込み、未知の世界に挑戦することになりました。事業が軌道に乗ってきた中、経営の話を持ち込んできたK氏から手形の貸し出しを依頼されたのです。K氏は手形を間違いなく決済してくれたものの、その後も数回の依頼を受け、回数を重ねるごとに金額はかなり大きな額になりました。何度目かの貸し出しの決済が迫る頃、頻繁に店に顔を出していたK氏が姿を見せなくなり、連絡を取るも全く払おうとせず、そのまま姿をくらましてしまったのです。 一転して手形を決済するための金策に走る日々が始まりました。いろいろな金融業者にお金を借り、やがては裏金融にも手を出すことになり、2千万ほどだった借金は5千万に膨れ上がっていました。世間体を気にして続けていた事業も断念するほかありませんでした。

このままで人生を終わるわけにはいかない。
名を変えて生まれ変わり、立ち直ってみせる。

この時、自分なりに文献を読み研究してきた姓名判断により、試行錯誤しながらたどり着いた名前が桜宮史誠です。 それから私は、高収入を得られる仕事を探し回り、報酬が全額歩合制の小型マッサージ機のセールスをスタートし、猛烈な営業を続けました。
ある日の夜中、肩と背中が妙に動き出す異様な感触に目を覚ましました。驚くべきことに、4、5分経つと、重症だった肩、首の凝り、腰の痛み、動悸、息切れなどがすべて消え去っていたのです。この異次元的体験は死霊怨念の離脱だと後にわかりました。この体験により姓名学への傾倒を一段と深めることになりました。 数ヶ月後、古びたアパートを借りることができ、家族をアパートに住まわせ、自分は車中で暮らしながら働くことにしました。それまではワゴン車で家族全員が生活していたのです。思う存分動きまわれることを生かすために勤めていた会社に辞表を出し、独立して営業を始めました。稼いだお金は最低限の生活費を手元に残し、債権者や親戚たちに手渡しました。

姓名鑑定家への転身
ある日、運命鑑定のチラシを目にしました。その時私は、『これまで祈祷、霊能、占術、整体にかなりつぎ込み、姓名の研究もそこらの占い師に勝っていても決して劣ることはないはずだ。さらに救急隊での経験があるので、急を要する人の処置も身につけている』と考えたのです。 そこで、自ら出張姓名鑑定のチラシの案を作り、個人営業で各地を回りながら、出来上がったチラシを新聞折り込み店に持ち込みました。この時に3件の依頼を受け、初めての鑑定を行いました。 ある程度の自信をつけ、旅館を貸しきっての初めての本格的な鑑定会を行ったのですが、1日目、2日目と誰一人としてやって来ません。駄目かもしれないと思い始めた3日目、私が世に出るきっかけを作ってくれることになる女性S氏が訪れたのです。後に、S氏の協力により初の書籍を出しました。
その後、さらに姓名判断の研究を続け、書籍の全国出版を目指しましたが、まだ名が知られていないために取り合ってくれる出版社は見つかりませんでした。 借金催促の中、何年も出版への努力を続けたある日、ついに出版社から声がかかり全国出版を実現したのです。

現在の桜宮史誠
それ以降、姓名判断をはじめオーリングテストに関する書籍も合わせ、現在までに14冊の書籍を出版しました。テレビ・ラジオ等にも出演させていただき、多くの方々に名前を知っていただくことができたのではないかと思います。出版した書籍の累計発行部数は60万部を突破し、これまでに姓名判断を行った相談者の数は延べ100万人を超えました。このようにして私は、現在のような姓名鑑定家としての地位を確立していったのです。